第2回日本グランプリでの式場壮吉のポルシェ904GTSに1度だけながらスカイライン ..
あの時代に現地で見た日本人なんて、ほとんどいなかったわけでしょ?
うん。見ただけならほかにもいるかもしれないけど、巨匠の場合はケースが特殊。なにせ式場壮吉さん(※注1)とシェルビー・アメリカン(※注2)を訪ねていったら、ちょうどルマン出走の準備をしていたボスのキャロル・シェルビーから「キミたちもルマンに来るか? 来るんならパスを出してやるぞ」と言われて、行っちゃったというんだから。
式場壮吉の持ち込んだ「ポルシェ904」にあっけなく敗れてしまった復讐戦がこの ..
あの取材は楽しかったですね。巨匠も後々まで話題にしてましたよ。
道中で巨匠から昔の話を聞くのが至福の時間だったね。すごい話をいっぱい聞いたけど、中でも強く印象に残っているのが60年代の洋行話。巨匠は当時、ナマでルマンやインディ500を見てるんだよね。フェラーリとフォードの激突とか、トップを快走していたタービンカーがゴールまであとわずかというところでリタイアしたシーンとかを。
さすがシェルビーのゲストパスだけあって、メインスタンドの、フォードの総帥だったヘンリー・フォード2世のすぐ近くのいい席から見たっていう話でね。
ヘンリーの2番目だか3番目だかの奥方がイタリア系で、フォードそっちのけでフェラーリを応援していたのでヘンリーが渋い顔をしていたとか、ヘンリーの娘がすごくきれいだったとか、ライブで見ただけに話がリアル。こっちは聞くだけで興奮したよ。
なにせ式場壮吉さん(※注1)とシェルビー・アメリカン(※注2)を訪ねてい ..
『webCG』の試乗記コーナーに徳大寺さんが登場したのは2010年4月のこと。最初の試乗車は「ホンダCR-Z」だった。(写真=河野敦樹)
そのいっぽうで、そば屋のオバちゃんとも楽しそうに話をしてたよね。われわれと取材に出掛けた先で食事をする際には、どんなところでも絶対に文句を言わなかったし。ファミレスが多かったけれど、日産の古いクルマを収めた座間事業所の記念庫に行ったときは、案内してくれた担当者に頼んで社員食堂で昼ごはんを食べさせてもらったじゃない?
ありましたねえ、そんなこと。まわりの、日産の社員の方々が不思議そうな目で見てた。向こうからすりゃ、迷惑な話ですよね(笑)。
多分、式場壮吉さんの427コブラロードスターをモデルにしたとおぼしきモデル。
恐縮です。で、帰りに横浜で食事をしたんだけど、寄った店がたまたま子供の頃に親に連れられてよく行ったところだったので、昔好きだったハンバーグサンドを、メニューを見ないで注文したんですよ。すると巨匠もそれが好物だったようで、「ここのハンバーグサンドを知ってるなんて、キミとは気が合いそうだな」と言われて。
それからずっとというわけだ。
そりゃびっくりだよねえ。ところであらためて聞くけど、そもそも徳大寺巨匠とは、いつごろからの付き合いだったの?
90年代の後半から。最初は『NAVI』の巨匠の連載のために、担当編集からナローの「ポルシェ911」の調達を頼まれたので、僕が知り合いから借り出して取材に同行したんですよ。そのとき箱根まで巨匠を乗せたんだけど、「キミは運転がうまいな」と褒められて。
日本では式場壮吉選手が生沢徹選手のスカイラインGTと演じた第2回日本 ..
最後に会ったのはいつ?
亡くなるちょうど1週間前。いつもの調子でいっしょに取材に行っただけに、知らせを受けたときには耳を疑いました。
でもさあ、60年代に海外までレースを見に行くなんて、巨匠は相当稼いでたんだろうね。20代の若さで設立したカーアクセサリー会社のレーシングメイトが当たって。
なんたって当時はコープオリンピア(※注)に住んでたっていうから。
今で言うヒルズ族だね。ちょっと古いか(笑)。とにかくバリバリの青年実業家だったわけだ。
最終的には経営破綻して巨匠は巨額の負債を背負い、大変な目に遭った。でもレーシングメイトというブランドは、すごく進んでいたと思うんだけれど。
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この車は若き日の本田宗一郎氏がアート商会に奉公していた時に、御主人を手伝って造ったレーサーだという事はよく知られており、現物を見たことのある方も多いだろう。しかし一般に知られる様になったのは、ホンダ・インターナショナル・スクールの生徒さんの手で綺麗に修復された1979年より後のことだが、この写真が撮られたのはそれより13年も前の修復前のことだ。前輪がレーサーに似つかわしくないホワイトウオールを履いているのは、2つだけ物が無い時代に荷車用に売ってしまったらしい。
モータースポーツ草創期の名ドライバーだった式場壮吉(しきば・そうきち)さんが16日に亡くなっていたことが19日、分かった。77歳だった。
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(10)<カーチス>(日)我が国の車好きの間では「カーチス号」として知られるこの車は、本田宗一郎少年が奉公していた本郷のアート商会という修理工場の主人榊原郁三氏が組み上げたスペシャル・レーサーで、1923-4年(大12-3)にかけ、シャシーや足回りには古いアメリカ車ミチェルやビュイックが利用され、ホイールやボディは自作した。初期のボディは軽量化のため後ろ半分は木骨羽布張りで、テールが長く突き出していたが、その後スチールの現在の形に変わり、ラジエターもオークランドからシトロエンに変わっている。エンジンは車名のもとになったアメリカの複葉機「カーチス・ジェニー」に使用されていたV8 8.3リッター90hpで、初代エンジンはダイムラーをコピーした100hpが積まれたが重いうえ背が高いのでコーナーに弱く、もっと小型で軽量なものとして探し当てたのが千葉・津田沼の民間教習所にあったこのエンジンだ。(宗一郎氏はここで飛行機の操縦を習っていたらしい)
Q3-T9/26 式場壮吉自動車評論集01 現代のスーパーカーとスポーツカー 2007年
・外観がジャガーのD-Typeに似ているカニンガム「C6R」は、1954年回転が上がらないOHVエンジンに見切りをつけ、より軽く、より強力なDOHCのフェラーリ4.5リッターエンジンが選ばれた。1954年のルマンには「C6R」1台、「C4R」2台が出走し、「C4R」が3位と5位に入賞したが、「C6R」はリタイアした。
・ルマン挑戦最後の年となった1955年は、シャシーは「C5R」のまま、エンジンをインディ500用4気筒、DOHC 3リッター「メイヤー・ドレイク」に変えて1台参加したが、フィニッシュ出来ずルマンへの挑戦は終わった。写真の車は1955年とあるので後期の車だ。
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伝説のACコブラは横浜で生き続けてるぞ! | WILDMANS BLOG
カニンガムのレーシングカで一番有名なのはこの「C4R」だろう。3年続けて入賞した実力もさることながら、正面から見た時のまん丸のグリルと、大きく切れ上がったフェンダーが強い印象を与えるからだ。前年の残念な結果を踏まえて、全く新しく作り直された「C4R」は一回り小さくなり、重量も約450kg軽くなったが、エンジンは300hpまで強化され、戦闘力はさらに増した。1952年のルマンには2台のロードスターと、1台のクーペが出走したが2台はリタイヤし、カニンガム自身がドライブするロードスターが4位に入賞した。
43周年のミニカーコレクション、第9位発表& AC COBRA 427
クルマ好きならずとも広く知られた、自動車評論家の徳大寺有恒さんが、2014年11月7日にこの世を去りました。取材や私生活を通して長年親交のあったふたりのライターが、思い出深い〝巨匠の素顔”を紹介します。
映画のなかに登場するACコブラ、またはシェルビー・コブラ。 ..
レーシングカーを個人で造ろうというのは「ビジネス」というよりは「道楽」に近いが、それでもスポーツカーを作って市販すれば幾らかの利益が上がるのだろうか。この車は「ミケロッティ」のデザインを「ヴィニアーレ」が架装したボディに、クライスラーの5.3リッターエンジンを持つ超高級スポーツカーで、全体のイメージは同時代にヴィニアーレが多数手がけたフェラーリにも似ている。イラストの媒体まで作ったところを見ると本気で売る気だったのか。生産台数の資料が見つからないので判らないが多分一桁止まりではなかっただろうか。
エランのACコブラ・シェルビー・カーマガジン・コブラ427・フォードレーシングに関するカスタム事例 ..
1950年キャディラックでルマンに挑戦したカニンガムは、フロリダ州のウエストパームビーチに工場を作り本格的にレーシング・スポーツカー造りに取り掛かった。エンジンはクライスラーのV8 OHV 5426ccをベースに、キャディラックのピストン、コンロッドを組み合わせて圧縮比をあげて強化した。1951年のルマンには3台で挑戦したが、2台はリタイア、残りの1台は2位を走っていた20時間目でエンジンにトラブルが発生、スローダウンを余儀なくされ18位まで順位を下げてしまった。
コブラとかいろいろな車に似ているが、それとも彼らが真似したの ..
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(9)<カニンガム>(米)(1951-55)「カニンガム」はカリフィルニアの大富豪ブリッグス・カニンガム(1907-03) が私財を投じて製造した、戦後のアメリカで最初に登場した本格的なスポーツ/レーシングカーだ。1950年にはキャディラック61シリーズでルマンに挑戦、ボディをグラマン社が手掛けた改造車(余りにも奇異な外観からル・モンストルと呼ばれた)は自からドライブして11位、もう1台の殆どストックのままのキャディラックは10位となっている。もう一つの大きな功績はカリフォルニア州コスタ・メサに「ブリックス・カニンガム・オートモティブ・ミュージアム」を作り、個人コレクションを公開したことだろう。1966年から20年目の86年には閉鎖されてしまったが、ここには「カニンガム」をはじめ、ブガッティのロワイアルやT55、イスパノスイザ・キングアルフォンゾ、ドラージュV12 GPなど、後年世界のいろいろなイベントで僕が写真に収めることの出来た夢のような名車が展示されていた。まだ外国の情報が少なかったこの当時、C/G1966年10月号に掲載された写真入りの現地レポートには夢の世界を見る思いで見入った記憶がある。 「カニンガム」と名のついた車は1951年から55年に造られた「C1」から「C6」の6種しかない。最初に造られた「C1」はあまり資料がなく殆ど知られていないが、カニンガム・ミュージアムに収納されていた時代の写真が残っており、それは初期のフェラーリに似たオープン2シーターのスポーツカーで1951年のルマンでプラクティスに出走している。
1/43 AC COBRA 427 1966 Green(限定品)【SKB43013】
写真の車は極めて個性の強い、趣味性の高い一品もので、海にこだわるオーナーの好みから車体は「波を蹴立てるボート」をイメージして造られた。上から俯瞰すると客室の周りはボートのようなチーク材が貼ってあり、室内の換気も船についているような換気筒でおこなう。後ろに背負ったスペアタイヤの留め具はスクリュウを模している、といった凝りようだ。金具類はすべて真鍮の磨き出しで金色にひかり輝いて豪華だ。エンジンは6気筒 SV 9237cc/110hp 最高速度113 km/hは当時としてはかなり速い。前席にはドアがなく、後ろから乗って中央通路を通って運転席に着く。
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AC コブラ 427は1965年のロンドンモーターショーでデビューしました。 英国のAC ..
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(8)<クレイン・シンプレックス>
この車が日本に紹介されたときは「クレイン・シンプレックス」だったが、1912年創立された「クレイン社」と、1907年からスポーティな車を作っていた「シンプレックス社」があり、1914年両社が合併して「クレイン・シンプレックス」となった。アメリカの自動車メーカーが網羅されている大事典によると、クレインの項では「クレイン・シンプレックス」だが、「シンプレックス」の項にも掲載されており、合併後のモデルもこちらに記載されている。しかし実質の経営権は「クレイン」側にあったようで、合併後の「モデル5」という大型モデルはヘンリー・M・/クレイン自身が設計したといわれる。
(写真16-1-e)1916 Crane-Simplex Model5 Touring by Holbrook 1971-03 ハーラーズ・コレクション/晴海)
M-BASE エムベース | 60年代、街角で見たヨーロッパ車
東京オートサロンで見られるようなアフターパーツメーカーと自動車メーカーのコラボを、半世紀近く前にすでにやってたわけですね。
早すぎたのかもしれない。レーシングメイトの失敗に懲りて二度とビジネスには手を出さなかったけれど、巨匠は時代を読み取る見事な嗅覚と実行力も持ってたんだな。
本人は「好きなクルマをビジネスに結びつけられないかと考えた結果が、たまたま当たっただけ」と言ってたけど。